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ペーアッシュ パリ
ジャポン株式会社
PH PARIS JAPON

INDUSTRY ACADEMIA

スイーツで次代をつくる、フランスの高級パティスリー。

1998年、東京赤坂のホテルニューオータニに世界一号店となる「ピエール・エルメ・パリ」を出店。
多くのスイーツファンから絶賛を浴びる同社は、
既成概念に囚われないパティスリー界の枠組みを超えた“次世代のパティスリー”へと進化し、発展を続けている。

[ ピエール・エルメ・パリ アジア支部代表
ペーアッシュ パリ ジャポン代表取締役社長 ]
リシャール・ルデュ
RICHARD LEDU

フランス・クレモンフェラン生まれ。15歳から地元のレストランに入り’89年より菓子店で基礎を学ぶ。’92年「ピエール・ガニェール」で料理人として働き、同レストランでパティシエに転向。’95年「フォション」でピエール・エルメ氏と出会い、’97年ピエール・エルメ氏がコンサルタントを務める「ラデュレ」のシェフパティシエに就任。’98年にホテルニューオータニでの「ピエール・エルメ・パリ」の立ち上げに際して来日。以来、日本での統括シェフパティシエを経て、日本代表とアジア支部代表を務める。

「お客様のわくわく」をつくり、ピエール・エルメ・パリを更新し続ける。

ーピエール・エルメ・パリが20年以上もの間、日本で愛されている理由は何だと思われますか?

フランスの文化や私たちのフィロソフィーを伝えながら「日本人の毎日にわくわく感や幸せをつくること」をひたすら考え努力を重ねたことではないでしょうか。例えば、日本に出店した当時、菓子のサイズをフランスより小さくしました。レシピはフランスと同じなのですが、日本人の身体はフランス人よりも小さいことを考慮し、サイズを小さくし2個入りにするなど食べやすくしたのです。パッケージや空間においても細かく日本人の好みに合わせていきました。しかも当時はマカロンという存在をほとんどの日本人が知らなかったので、セミナーを開いたりメディアの方たちを招待してPRするなど、少しずつ口コミでリピーターを増やしコミュニティを広げ、さらに新しい話題づくりをし、ファンを増やしていきました。このように私たちは常にお客様を見ているので他社を分析するような「マーケティング」を行いません。ピエール・エルメ・パリのビジョンを忠実に、挑戦し、その経験から新しいものを生み出しています。

そしてもうひとつ、愛され続けるために大切なことは、時代と共に日々更新していくことです。様々な企業とのコラボレーションを行うなど新しいチャレンジを積極的に行っていることもそうです。ピエール・エルメ氏とミスタードーナツとの共同開発は大変話題となりました。結果的にSNSのフォロワー数もアップし、次世代をピエール・エルメ・パリのお客様に迎えることができました。2018年よりスタートした、日本の素晴らしいものを世界へ発信するコンセプトブランド『Made in ピエール・エルメ』では、ブランド表記をカタカナにしたのですが、これも時代と共に変化するべきだと思ったからです。とても評判よく、インスタグラムなどで投稿して下さっているのをよく見かけるようになりました。

菓子作りはパッション

ー「職人」と言えば無口なイメージがありますが、コミュニケーション力は必要でしょうか?

たしかに、職人というと無口なイメージがあるかもしれませんね。パティシエにとって技術力はもちろん、コミュニケーション力はとても大切です。私の場合は、両親に教育をしっかり受けさせてもらったことや、よく旅行に連れて行ってもらったおかげで自然とコミュニケーション力を育んだのではないかと思います。また、職人にとって人との出会いも大切です。ピエール・エルメ氏との出会いもそうですし、3つ星レストランで働けたこともご縁ですから。みなさんもご縁を大切にしてください。

ーパティスリー業界に向いている人は、どのような人だと思われますか?

やはりパッションがある人。「パティシエに向いているのか?」ではなく、この仕事を心から愛し続ける強い意志を持てるかどうかです。パティシエや料理人はお客様の幸せをつくる仕事ですから情熱を持つことはとても大切です。私は15歳から自分の将来を決めていたので、とても仕事をしやすかったですね。最初から情熱を持ち、自分の意思をはっきりとさせておけば仕事はしやすくなりますよ。私たちが採用面接を行う際にもそのことを重要視しています。それから、何が起きてもおかしくない世の中ですからルーティンよりも変化に対応する能力を持っていることも大切。

例えば、予測できない自然災害が起きた際に、もうダメだと諦めるのではなく、どうするかを考えられる人。ですから、私はあえてルーティンをつくりませんし、不測の事態が起きた時にはルーティンは何の役にも立ちません。私は数多くの出会いを経て現在に至りますが、まさか日本にいるとは想像すらしなかったですね。「将来は世界中で通用する仕事に就きたい」という思いからはじまり、当時はアメリカで働きたいと思っていましたから。